樽前山で起きた航空事故 5

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5.空襲の痕跡

今に残る空襲の遺構

樽前山に源流を発し苫小牧西部で太平洋にそそぐ覚生(おぼっぷ)川の河口に、今は使われていない古いサイロ(家畜の飼料貯蔵庫)が建っています。この覚生川沿いに上流へとさかのぼっていくと、ラスムッセンが墜落事故現場から下ってきた経路とかなり重なる部分がありそうです。

)空襲を受けたサイロ、背後に樽前山を望む。2017年10月15日、やぶ悟空撮影(冒頭の写真も)

サイロは国道36号線のすぐ脇で、海側にある「ケイホク」生コン事業所の向かい側にあり、看板などはありません。「林重右衛門墓碑」の説明板が傍にありますがサイロとは無関係のものです。Googleマップでは「空襲を受けたサイロ」と表示されます。

サイロの屋根の穴は、単に古くて朽ちただけでなく、機銃による弾痕と思われる丸い形が目につきます。苫小牧に空襲があったのは、1945年(昭和20年) 7月14日・15日の2日間です。サイロのある錦岡(にしきおか)地区で大きな被害を被ったのは14日の空襲によるものであったという記録が残っています。

)穴の空いた屋根。2017年10月15日、やぶ悟空撮影

「戦争と苫小牧」(山本融定著)によれば、「空母シャングリラ第85爆撃機13機のうち4機が錦多峰(にしたっぷ、現「錦岡」)地区を攻撃、走行中の列車や出漁中の漁船などを攻撃した」とされています。苫小牧市史・下巻(昭和51年3月31日発行)では錦岡地区の被害は死者4名・重軽傷者6名とされていますが、苫小牧南高校郷土研究部の聞き取り調査結果などによれば、死者は6名であったことが分かっています。現在の錦岡駅近く、錦岡樽前山神社の境内には、28名の名前が刻まれた錦多峰戦没者の碑があり、この空襲で命を落とした方々(一部)も含まれています。

)錦多峰戦没者の碑。2017年10月19日、やぶ悟空撮影

錦多峰(錦岡)空襲は7月14日午前7時ごろとされ、苫小牧南高郷土研究部は、当時を知る人々から「7時半の列車が来る少し前だから7時ごろ」、「空襲は7時15分ごろから」などの証言を得たようです。イーグルストン中尉とラスムッセンが搭乗したヘルダイバー爆撃機は、朝7時ごろには空母からまだ発鑑していなかったので、死傷者を出したこの攻撃には加わっていなかったことになります。

空中写真

話をサイロに戻しましょう。空襲当時、この場所にサイロがあったことを確認するため、国土地理院の空中写真を検索してみました。すると、1944年10月22日と同26日に撮影された複数枚の白黒写真が見つかりましたが、サイロを明確に識別することはできませんでした。ただ、その付近に民家や牛舎らしき建物が写っているので、そこにサイロもあった可能性があります。

)1944年10月26日撮影の空中写真(国土地理院、912A42-C2-36)から切り出し

)1944年10月26日撮影の空中写真(国土地理院、912A42-C2-37)から切り出し

ヘルダイバーの墜落事故が起きる前年の秋に撮影されたこの2枚の写真をよく見ると、東(苫小牧方向)に進む列車が写っています。蒸気機関車が吐き出す白い煙とその影が見え、飛行中に連続撮影したと思われる少しの時間差のうちに移動した、長い車両も判別できます。このような列車が、イーグルストン中尉とラスムッセンが搭乗したヘルダイバーの攻撃を受けることになったのでしょう。

列車の被害

7月14日の北海道空襲において、空襲の激しかった室蘭付近では、07時50分ごろ稀府(まれっぷ)駅に停車していた函館発稚内行の列車が機銃掃射を受け、死傷者35名を出した記録があります。その前の05時30分ごろは、道南の森駅付近では長万部行の、また、渡島沼尻信号所付近では函館行の旅客列車がそれぞれ機銃掃射を受けて多数の死傷者が出たそうです。青函連絡船が攻撃を受けほぼ全滅したのもこの日でした。(いずれも「函館・道南鉄道ものがたり - SLから新幹線まで」原田伸一著、2016年3月26日北海道新聞社発行より)

これらの攻撃には、時間的にも位置的にもラスムッセンのヘルダイバーは加わっていなかったことは明らかです。空母シャングリラの作戦報告書には、すでに紹介したように07:00出撃の第3波攻撃で「機関車3両と貨車を破壊し、爆弾により機関車1両と線路100メートルに損傷」という記録があります。イーグルストン中尉とラスムッセンが搭乗していた爆撃機が苫小牧で攻撃した列車がこの戦果に含まれているのか分かりませんが、室蘭~苫小牧間の列車の被害については日本側の記録は見つけられませんでした。

「5.空襲の痕跡」ここまで。

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